じぃさんの頭の中

普段考えていること、読んだ本、見た映画等。私を創るものを垂れ流し

今日の夜のひとりごと①

僕は右頬を殴られても左頬を差し出すような思想は持ち合わせていないし、やられたらやりかえすのは当然だと思ってる。やられたい人はどうぞご勝手にやられていてください。ボコボコにされていてください

 

どんな理由があろうと人を殺してはいけないだって。「人」を殺すということに意味を見出しているのか、人を「殺す」という点に意味を見出しているのかどっちだろう。生き物の命を奪う行為は世の中の誰もが生きている限りしていることなんだから、自分の手を汚さないだけに質が悪い

 

世の中には本当に素晴らしい動物愛護団体の方々もいれば、ベジタリアンヴィーガンなんていう生き方を選んだ人たちでもきちんと分別のついた方々もいる。でも一部の過激派によってそのイメージはずたずたにされていて百害あって一利なし状態なんだ。

 

我々はお金という代替手段を用いて自分たちの手を汚さずに命を頂いているということを理解していないといけない。スーパーなんかでおいてある食べ物はすべて誰がその形に形成してくれてるんだよ。そんなこともわからないのは社会のせいでも、教育のせいでもなんでもなくただ想像力がおそまつなだけだ

 

いただきますをさせるなというバカ親。そういった環境で育てられた子どもたちが不憫でしょうがない。物事の理屈も考えられず、表面的なものでしか判断できないような人間に育てられることがどれだけその子の教育に対して益があるのか。それこそ百害あって一利なしだ

 

表面的なことだけしか理解できないというのは残念ながら私の業種にも蔓延している。〇〇だから××なんていう単純じゃなものじゃないんだこの世の中は。でもそれが理解できない。身内や自分に親しい人たちとしか交流しないから。だからどんどん自分たちの考えが正しいと盲信していく

 

最初から異分子を受け入れることを前提から除いている人たちとの意見交換なんてしないほうがマシ。それが当然であると思いこんでいて自分の意見を曲げない、はては異なる意見を徹底的に否定してくる。そんな状態が健全な状態であろうはずがない。

 

結論の決まったディベート・ディスカッションほど意味のないものはない。人は殺してはいけないと決まった上での殺人の是非、体罰をしてはいけないと決まった上での体罰の教育効果の是非。実際にするしないではなく思考上ですらそれをなくした議論に意味はない。